山村・中ノ沢は、新潟市に近い五頭連峰の東側、中ノ沢川の流域に位置する集落です。戸数20、村民60名、昔から薪炭・林業で生計を建ててきた山村です。
 中ノ沢の人達は自然との関わりの中で暮らしてきました。 だから自然と共に森林と共に生きる風習・生活の知恵がいっぱい。
 中ノ沢渓谷森林公園では、この生きた生活の知恵をめいっぱい取り入れて 森林について学び、体験するすることができます。
 

中ノ沢集落

 ご先祖様は「武士」だった。中ノ沢の長老・神田幸一さんに「中ノ沢の歴史」をお聞きしました。「中ノ沢の歴史」を第一回「ご先祖様は武士だった」、第二回「村人186名・中ノ沢の昔」に分けてお伝えします。
 中ノ沢・神田家(現在 神田秋雄さん 15代目)が、6代の時に建てた「中ノ沢見立始(はじめ)」の記述を神田幸一さんが調査、中ノ沢の歴史が明らかになりました。
 寛文元年 1661年 丑年 与惣左エ門一家が綱木街道を旅しておりました。与惣左エ門一家は、与惣左エ門(42才)、妻 加代(36才)、惣左エ門(18才)、与エ門(12才)、娘(10才・後に綱木より婿をとった)の五人。与惣左エ門は四国・阿波徳島の257,900石の藩主・蜂須加忠英の次男でした。関が原の戦いの折、兄は徳川へ、自分は豊臣について戦いましたが、負けてしまいました。戦いの後、加賀 前田利常の世話になり、家来の娘を貰ったそうです。その後徳川のにらみが強まり、逃げ、落ち延びの旅に出ました。長い長い旅の果てに綱木街道を通り古岐に泊まった時、古岐の治衛門が言いました。「ここで開墾して暮らしてみたら」。古岐の治衛門は与惣左エ門を案内して笠菅山に登り、説明しました。「あそこに見える広いところを開墾したら。」
こうして与惣左エ門一家が中ノ沢で暮らし始めました。
 

ご先祖様は武士だった!

 まず最初に今の森林公園周辺を開墾して、そば畑を作りました。開墾していると100年くらい前の食器とお地蔵様(10体)が見つかりました。その周辺には3件の住んだ住居跡があったそうです。このお地蔵様にちなんでその土地を「幸地蔵」と呼んだのだそうです。
 今、中ノ沢渓谷森林公園の住所は「東蒲原郡三川村大字中ノ沢字幸地蔵」です。
 

  <神田幸一さん>

 中ノ沢の長老・神田幸一さん、80歳。中ノ沢の地理・歴史・風土全ての面でご指導頂いています。ヨドの森も案内頂きました。若い若い!

 「中ノ沢の歴史」第二回。今回は、神田幸一さんにお聞きした中ノ沢の昔の様子をお伝えします。
 明治24年、この中ノ沢は東蒲原郡ではなく、北蒲原郡綱木村中ノ沢新田と言う地名でした。綱木・古岐・中ノ沢で綱木村と言い、交通事情が違う昔では今と異なる交流がありました。先回の「ご先祖様は武士だった。」でご紹介した与惣佐エ門。綱木街道を旅し、古岐の治衛門の進めで落ち着き先を決めたのですから、中ノ沢の交流は綱木-古岐-中ノ沢から始まったのです。その後は石戸との交流が始まり、今一番行き来のある五十沢、上島は一番最後だったのです。今でも初めて中ノ沢渓谷森林公園に来られる方が「怖かった!」と言う名所「七曲」(助手席の女性が1番怖い)は、本当に難所だったのです。
  

村人186名・中ノ沢の昔!

 昔は自給自足。2町歩を耕作する家が2軒もあり、一家16名と言う大家族もありました。嫁、姑が同じ年に子どもを生み、一緒に子育てしていました。昔の生活のメインは、炭焼きと木材の切り出しでした。炭焼きは主に白炭で1窯・2日・30Kg・5俵できました。黒炭窯は少なかったです。中ノ沢集落の奥4Kmの西砥沢と言う所に鉱山があり、明治の終わりより大正の初期にかけ金と銅を産出しました。金の含有量は高かったそうです。又、笹良川上流では上質の御影石が採れ、大正2年の磐越西線建設工事に使われ、トロッコで運ばれました。

 昭和26年、部落中央の中ノ沢川での水力発電が始まりました。秋に雨が降り落ち葉が沢山流れて来ると取水口が詰まって電圧変動が頻繁にありました。水路当番があり回り番で水路のゴミ取りをしました。各家はラジオだけでテレビは学校だけでした。
 昭和36年に公衆電話が一台入り、電話電報の取次ぎをしました。電話より2年遅れて38年に電気が入りました。
 家はかやぶきで、「さいの神」は昔はわらで作っていました。
 昨年閉校になった三川小学校中ノ沢分校は昔は綱木分校と言いピーク時には36名の生徒がいました。
 中ノ沢部落から中ノ沢渓谷森林公園のある幸地蔵の田んぼまでは、昭和43年の羽越災害復旧工事によって今の道路が出来るまでは急な坂を登り降りして通いました。寛文年間、幸地蔵開田には小屋を建て家に帰らず寝泊りして働き、家出留守を守る妻や子に今日も一日無地に終わったと知らせるためこの急な坂の峠の大きな松の木にちょうちんをあげて無事を知らせたと言われ、この峠を妻恋峠と昔は言ったそうです。
 

 戸数・人工・耕作面積の推移です。
   明治24年  戸数19戸  186名   耕作面積 18町2反   10人/戸
   昭和25年  戸数25戸  184名   耕作面積 11町       7人/.戸
   平成15年  戸数20戸   62名   耕作面積  7町       3人/戸
 ここ中ノ沢でも、深刻な過疎化と高齢化が進んでいます。

 今回のお話の中にも出てきた三川小学校中ノ沢分校は、明治10年、地蔵様のお堂で綱木校分教場として開校して以来125年余の歴史を刻んで来ていました。昨年閉校するに当たり部落の有志の人達により「閉校記念事業実行委員会」が組織され、「閉校記念観桜会」が催され、「閉校記念誌」が発刊されました。この記念誌発行の任を受け、全ての原稿を自分で打ち、編集校正までやり遂げた神田一秋氏の寄稿文とあとがきからの一文を最後に掲載させて頂きます。

 =新中ノ沢へ「情報受発信・心の結集」=
 今、中ノ沢に必要とされているのは、何だろうか。少子高齢化が進み、価値観も多様化した近年、中ノ沢が誇った「和」が大きく揺らいでいる。いかにして集落機能を維持し、この時代に合った運営を行い、そして将来につなげていけるのか。かつて賑やかだった時代を懐かしむばかりではいけない。現実を充分把握し、認識して、この地の将来を探らなければ、仕掛けなければならない。(中略)今いる住民と、中ノ沢出身者と、歴代の先生方等中ノ沢に縁の人と、そして今から中ノ沢を好きになった人が一体となって、新たな中ノ沢を創り出していくことが必要ではないでしょうか。
 この中ノ沢から日本中に情報を発信したい。

 =あとがき=
 今を生きる私達は、山の中、未開の地にやって来て生活を始めた先祖の決意、そして現在まで導いたその後の先輩達に感謝の念を忘れてはならない。分校創立百年誌に「桃源郷」の表現もあり、自給自足の厳しい生活の中にも、山、川から多くの自然の恵みを受けたことだろうが、日々の生活、少人数での新田開発等の労苦は、想像を超えるものがあったに違いない。戸数、人口が徐々に増え、集落機能が形成され、対外的にも近隣集落にその存在、立場を認められるようにもなっていったのだろうが、このことにもかなりの歳月を要したことだろう。(中略)
 今から125年後、350年後、この中ノ沢はどうなっているのだろうか。残念ながら先が見える感もあり、このままでは先祖が来た時と同じ大自然の姿に戻っている危険性も高い。そうならぬよう、今以上に癒しの地として多くの人から愛され続ける中ノ沢であるよう、一人一人が真剣に自分の将来を考えているように、家の将来、中ノ沢の将来について、勇気を持って語り始めようではありませんか。


 中ノ沢の人達は自然との関わりの中で暮らして来ました。だから自然と共に森林と共に生きる風習・生活の知恵でいっぱいです。中ノ沢渓谷森林公園は、こうした森林と共に暮らしてきた山村・中ノ沢と一つになった、そしてこの活きた生活の知恵をめいっぱい取り入れて自然・森林について学び、体験できる「総合的な学習施設」なのです。
 こうした公園の活動が中ノ沢集落の活性化に繋がるよう努力して行きたいと思います。
 これからも、このサイトでは中ノ沢を紹介して行きます。次回は「屋号」を予定しています。

<昭和40年頃の中ノ沢集落>

<分校脇の橋>
<ワラのさいの神>
<羽越災害・分校>
<運動会>